夜の足音(あしおと) 田中さんは、山の中の古い旅館(りょかん)に泊まっていました。 温泉に入って、おいしい夕食を食べた後、早く寝ることにしました。 夜中、田中さんは小さな音で目が覚めました。 ぺた、ぺた、ぺた……。 廊下(ろうか)を、だれかが歩いているようです。 時計を見ると、夜の十二時でした。 「こんな時間に、だれだろう。」 足音は少しずつ近くなって、それから聞こえなくなりました。 田中さんは、しばらく待ちました。でも、何も聞こえません。 気になったので、ドアを少し開けてみました。廊下は静かで、だれもいませんでした。 「おかしいな。確かに聞こえたのに……。」 そのとき、また音がしました。 ぺた、ぺた……。 廊下の奥(おく)からです。 「まさか、おばけ……?」 田中さんは少し怖(こわ)くなりました。急いでドアを閉めようとしたとき、声が聞こえました。 「こんばんは。まだ起きていたんですか。」 白い髪(かみ)のおじいさんが、廊下の角から出てきました。手にお茶の缶(かん)を持っています。 「あ……こんばんは。さっき歩いていたのは、あなたですか。」 「ええ。なかなか眠れなくて、お茶を買いに行ったんです。でも、自動販売機(じどうはんばいき)の場所が分からなくて、あちこち探していました。」 田中さんは安心して、笑いました。 「足音だけ聞こえたので、おばけかと思いました。」 「おばけですか。それはすみません。」 おじいさんも笑いました。 「よかったら、お茶でも飲みませんか。」 田中さんもお茶を買って、二人で窓のそばのいすに座りました。 「前にも、この旅館に泊まったことがあるんですか。」 「ええ。若いころ、妻とよく来ました。でも、一人で来たのは初めてです。」 「今日は、奥さんは?」 「家にいます。友達と出かけるほうが楽しいそうです。」 二人は顔を見て、声を出さないように笑いました。 それから、今までに行った場所や好きな温泉の話をしました。田中さんは、おじいさんの話を聞きながら、お茶をゆっくり飲みました。 気がつくと、三十分もたっていました。 「そろそろ寝ましょうか。」 「そうですね。お話しできて、楽しかったです。」 部屋へ戻る廊下で、また音がしました。 ぺた、ぺた、ぺた……。 今度は、二人のスリッパの音です。 田中さんは、もう少しも怖くありませんでした。